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  【超古神道物語2】

   「神の数学」の真実を語ろう



   

     『神の数学』

とても信じられない不思議な「数」と「神」との物語。
                   
                                                         令和3年5月   上載 

 さて、さて、少々油断していたら、何と、今年も5月を迎えてしまった、何か、月日は益々速度を早めて来ているような気がするのは私だけであろうか、まさに、光陰矢の如くの言葉が、何故かこの年になってから、身に染みて判るような毎日である。

 私はこの約半年の間に、人間には考え付かないような二つの大仕事をしてしまった、一つは「数」に関することであり、しかも、それは「現代数学」では考えられないような簡単な「数の計算」を用いてである。
 要するに、今まで、誰もなしえなかった「神の存在」と言うものを「数」で明らかにしたと言う事である。
 しかも、大変易して、簡単な計算方法をもってである……!!!。
 
 要するに、「神」そのものは間違いなく存在すると言うことを証明したのであり、しかも、「数」の仕組みを用いてである。
 ただしである、それはあなた方の想像しているような人間的な姿とか、物質的な有形な存在等ではなく、科学者達が言っているような「超知的な存在」であり、現在の宇宙自然を設計し産み出した究極の存在、あるいは、すべての自然の摂理を作り上げた意識的な全知全能の存在、または同時に、どのような空間や時間の中に常に等しく存在している「大いなる存在」と言うべきものなのである。  あなた方はガッカリするであろうが、しかし、それが本当の「神」の正体であり、「神」の本当の姿というものなのである。ようするに、学者達の言い分が正しかったと言う事である。
 
 確かに、あなた方は落胆するであろう、何故ならば、今まで我々は「神」は我々と同一的な存在、すなわち、我々には想像の出来ないような超知的な力を持った「人間的な存在」と考えていたので、懸命に呼びかけたり、拝んだりして物事を頼んだり、お願いしたりしてきたのであるが、それらは一切何の役にも立たなかったと言うことになるからである。 
 
 恐らく、この「神」の存在証明は小学高学年の学歴あれば、誰でも計算出来るものであり、しかも、キチンと計算はで成り立って、不思議なことを語っているものである。別に、威張るようなものでもない。それは不思議な動きを見せてはいるが、よく、考えて見ると当たり前の答えなのである。
 まあ、簡単に言えば、ただ、「神」の言葉と「神の業」を「数」で記すことにより、「神」の姿がおぼろげに判って来たと言うだけのことであり、しかも、それと同時に、「神」は大いなる意味を秘めながらも、普遍的で、かつ永遠的な形で存在していると言う事も、同時に解って判って来るものである。

 そこまでの不思議は誰が見ても判るのであるが、さて、その意義、意味となると余りに大きすぎて判断に苦しむことになることは知って欲しい。 何故ならば、そこには我々が未だ手にしていない宇宙の形や、次元の真実等がすべて、「数」で見事な形で表現され、更には、更なる進展をサジエストしながらあなた方を待っている様子がありありと感じられるからである。
 しかも、それは、甚だ易しくて、難しいものでありながら、大変面白いもの、大変興味が湧くと言う「おまけ」がつくのである。

 私はこれから、その「神の存在」を数ヶ月かけて、「数表」とその論理をまとめ上げて、改めて公開するつもりである。
 しかし、それが何時になるかは今の所、言う事は出来ない。 恐らく、一生懸命にやれば、図表とその説明のまとめは2~3日もあれば出来るのであるが、しかし、折角なので、私は十分に時間をかけて自分を楽しませながらやって行くつもりでありる。何故なら、それが、何時もの流儀であり、私の楽しみ方でもあるからである。 

 しかし、誰か、聡明で直感と洞察力に優れた方が、手助けしてくれるならばその限りでもない、割合早く皆さんの前に披露できるはずである。ぜひ、そのよう殊勝な方が協力を申し出ることを期待したいものである。

 恐らくは、あなた方がその「神」の言葉を理解しようとしても、最初は少々難しく、意味がまったく不明で、理解が出来ないかも知れない。なぜならば、その内容たるものは「現代物理」の用語には未だ無い次元的な特殊な計算を持つものであり、これを理解して、初めて、人間の知にこれから新たに加えられるものになるからである。要するに、それは今までの「人間知」、あるいは現在の人間知、すなわち、現代数学では、どうしても「神」の真実を語ることが出来ないと言う事を我々に教えているものなのである。まさに、それが我々にとっては大いなるジレンマとなって来たものであり、それこそが、我々人間が古代から大変苦しみ藻掻いて来た最大の理由なのである。
 あなた方はその易しい計算方式の存在さえも知らず、余りにも鷹揚に構えていすぎるのであり、威張っていすぎるのである。

 おそらく、知れば知ったで、何とか、難癖を付けて邪魔しようとするであろう。まさに、それは度し難き高学識者の慇懃無礼な態度であり、自分の無能ぶりをさらけ出しているものである。 しかし、そのことは自分では解らないようである。
 
 それを証明しているのが最近の新聞記事である。何と、アジァ地区の20位までの大学ランキングには、僅か、1校か2校しかはいってはいないのである。何と、中国や、韓国に完全に負けている、いや、言葉は悪いがゴロ負けしている状態であり、まったく歯が立たないと言うのが本当なのであろう。
 そのあたりから見ても余り威張れないはずであり、私のような完全に無学の輩とそんなに違いが無いように思えるのであるが……!!!!。しかし、人間としてはあまり尊敬は出来ないことは事実である。何故ならば、「知」に勝ることと、学識が高いことは、まったく別物なのであるからである。 

 「知」は神様が与えたものであり、学識は人間からもらったものであり、基本そのものがまったく異なっているものなのである。

 それは諺にもあるではないか…!!、それが「余り知に溺れると身を亡ぼすことになる」 と……!!!。
 

 そんな事を考えていた時に、何となくで思い出した歌がある、それは今から、100年以上前に作られた歌であり、今の人たちは余り聞いたことの無いはずである。大変懐かしくなってユー・チュ―ブを覗いて見た。すると、そこには懐かしい言葉と共にシッカリその歌が載っていたのである。そこには懐かしい曲とともに、色々な「神の御業」が歌われていて、大変、懐かしい思い出が走馬灯のように浮かんだり、消えたりして大変楽しい時間を過ごすことが出来た。
 それはまさに、一つの心の大いなる慰めになるものであった。

 思い出しながら共に歌って見ると、何と、美しい日本語と共に、「神」の真実を讃える文句が鈴なりに歌われて、改めて、先達たちの「神」に対する心構えに、いたく、感動し、その長い歌詞のフレ-ズを最後の最後まで聞いてしまったのである。
 その歌の名前は
「美しき天然」であり、いまでは失われてしまった素晴らしい言葉、懐かしい文句等が綺麗なメロデイで次々と歌われていて、心から「神」の御業を賛美、讃褒している様子が、ありありと伺えるものである。
 そのすべてはあなた方が聞いたこともない見事な言葉と共に歌われている素晴らしいものであり、それらが過去の日本にシッカリ存在して、人々に歌われていたことがよく判り、大変、心が打たれた。
 まさに、それは心をほのぼのとさせる日本の本当の歌であり、素晴らしい歌なのである。 余りのなつかしさに、我を忘れて夜中に大声で歌い、万感をしばし楽しみ、そして涙したのである。
 まあ、年甲斐もない話し、恥かしい話しではあるが……!。

 
 さて、またもや馬鹿馬鹿しいことを述べて自己満足に浸っているとのたまい、軽蔑の念に一杯の御仁がいれば、御足労ではあるが、是非とも、当宅に足を運び、私の言う通りに少しばかり、「神の数学」の計算を軽く行い、検証を楽しんでもらいたい。
 出来るならば、「神の存在計算」を手助けして貰えれば、まことに有難いのであるが…!!!。

 その上で、改めて、家に帰ってから、自分の手でジックリと再検証して真実を確証しながら、その事実を確かめて貰いたい。
 とにかく、それは一見、馬鹿馬鹿しいような奇妙な計算であり、小学生でも出来る大変易しくて、不思議な計算なのである。
 それを行うことにより、あなたの心は十分満足し、これからの自然を見る目や世間を見る目も変わってくることになるはずであり、「神」の存在を確認することも出来るのである。
 また、それを会得すると共にあなたの生活も一変し、「神」の存在を信じて楽しく生きて行くことが出来るものである。
 
 ただし、その数計算は一桁の加算計算であるが、甚だ、「数」が多いので面倒な計算ではある。また、時間がかかるので、ある程度の忍耐力と持久力(2時間から3時間)が必要となるものである。そのことは、あらかじめ、言って置きたい。
 
 また、その結果を図示して、まとめるのにも直感と洞察力がある程度必要なものでもあり、それは言ってみれば、まさに、あなたなの腕と頭脳による自然との力比べと言うことになるはずである。 また、場合によれば、パソコンにて表を完成させ、意味を糺すには1日か二日位はくらい懸かるかも知れない。 しかし、その意味さえ判ったならば、持って帰って後日にでも自宅で完成させて、感激するのも一つの手ではあろう。とにかく、短時間では無理なものであるが、大変、意味深く、考えさせられることになるのはは承知して貰いたい。
 
 せめて、「神」の存在を明かしたいと言う強い大望があるならば、そのくらいの自己犠牲は払ってもいいであろう、そのあたりは覚悟して来てもらいたい。とにかく、「神」の存在を知りたい方、その計算法を知りたい方は遠慮なくどうぞ…!!。
 
 最近の若者たちは我こそはと言う覇気がないばかりか、辛抱強さもないのが大変気にかかることでもある。
 要するに、日頃、甘えさせられて苦労が足りないと言うことであり、それ故に大望と言うものが抱けないと言う事である。
 是非、そのあたりを回顧しながら、自分の腕と技量を試して見ることにしてもらいたい。いい経験になるはずである…!!。
 要するに、少々、すべてに渡って安楽し過ぎるのであり、苦労しながら深く考えること等は一切しないと言うことであろう。
 それでは何時まで経っても半ば、生半可な人生で終わり、満足した深い生涯は送れず、不満だらけの人生を送ることになりかねないのである。とにかく、若い中に何でも経験しておくことが大切なことであり、それが打たれ強い人間を作り上げることになるのである。 


 私などは、自慢じゃないが、10歳にもならない中に、外国で親、兄弟5人のすべてを失い、飢餓と渇きに苛まされながら、一年半と言う長い間、2歳半の歩けない弟を抱えて、何百里と言う距離を歩き通して、一人で日本に引き揚げて来た苦しい経歴を持っている身である。 それはまさに、壮烈な人生、在ってはならないような経験そのものであり、深い心の傷を負いながら、人には言えないような苦しみの連続の果てに、何とか、やっと日本に帰って来ることが出来たのである。
 しかし、その経験は後の人生には大いに役立ったと今では、逆に「神」に感謝の気持ちで一杯であり、何時も「神」と波長が合っているような感じである。それ故に「神」を求めようとして苦心惨憺を繰り返しながら、現在に至っているのである。
 しかし、その経験だけは、今でも誇りに思い、大切にしているので、どのような難局でも乗り切れるだけの自信はもっている。
 
 それで頑張ることには何も違和感は無く、頑張りこそが生きがいであり、生きていくための必須条件であると思って、86歳の今でも懸命に、かつ楽しく生きている次第である。とにかく、今の口達者な若者達には体力では負けても、根性では負けないつもりである。
 だから、貧乏や飢餓なんては何と思ってはいない、今でも、三日くらい何も口にし無くても平気であり、何とも思わない。
 とにかく、生きていくためには頑張りが必要であり、頑張りこそが人間の人間たる由縁と思っているだけである。
 そうすることにより、運は開け、女神は微笑んでくれ、思うように人生は開けて来ると信じているのである……!!!!。
 それが私の信条であり、堅い信念と情熱をもって、今でも懸命に頑張って楽しく生きて来ているのである……!!!。

 さてさて、つい、力が入ってしまった、御免、ごめん。 さあ、余計な話は止して、改めて、本題に戻ることにしよう。

 
 この「神」の存在を、見出したいと思うならば、それは簡単である。要するに、一切の思考を停止して、当分の間、数の計算だけに心を集中することである。それに慣れてくると、今度は「数」の方から話しかけてくるようになるのである。そのための数表があの古神道の神髄である「カムナガラの道」であり、我々を夢幻の「数の世界」に連れて行って呉れる唯一のものである。
 それは本当の話しである、まあ、そこまで行き着くのが大変であるが…!!!。
 
 何故ならば、それは現代数学的な「数」の操作ではなく、あくまでも「数」と言う記号操作により計算が完成され、「神の存在」の証が次々と姿を表すことになるからである。また、それを一見するだけで、その余りの見事さにどのような大学者でも驚嘆し、腰を抜かし頭を垂れるだけになるものである。それほど、「数」の力は偉大であり、人々の魂を揺るがして止まないものである。
 
 これらを称して、西洋世界では、東洋から来た「数の秘術lと称して、秘密裡に伝えられて来たのである。
 それを最初に世に出したのはギリシャの数学者であり、哲学者でもあったピタゴラスであり、彼は西洋では初めて
「宇宙のすべては数の法則に従う」という思想を確立したのであり、そこから「数秘学」という学問が始まったと伝えられている。
 彼の言う「宇宙のすべては数の法則に従う」という事実は,そもそも、古神道の「カムナガラの道」に「数」でシッカリ記されているものであり、それが遥か大昔に日本人の海外飛雄とともに、かの地に伝わったと私は思っているのである。

 愚かにも日本人だけが、現在、「数」はインドで見出され、そこから西洋に伝わったと信じているのである。
 そもそも、インドと日本の歴史はどちらが古いのか、そこをシッカリ、そうしてジックリ考えてもらいたい……!!!!!.
 なんせ、日本の古神道の遺物そのものが、チベットやインドにはあまた存在しているのである。また、エゲ-海のクレタ島にはミケーネー文明が栄え、それは古代日本民族が作り上げたものと言われていることを、是非とも知って貰いたいのである。
 何故ならば、そこから発掘された「フアイストの円盤」には日本の古代文字が沢山書かれていたからである。それを日本の古代文字であると指摘したのが、ケンブリッチ大学の教授であり、それを読み解いたのが日本の古代文字研究家の相馬龍夫氏なのである。また面白いことに、このミケ-ネ-文明の発掘者であるシユリ-マンが発掘後の幕末にわざわざ日本までやって来て、散々日本を褒めそやしていたと言うのである。その時の日記本が、あの有名な「シユリ-マンの日本訪問記」である。

 
 そのように日本にとっては大切な歴史ではあるが、誰も口にはしない、本にも書かれる事もない、一体、誰が止めているのであろうか……!!???。
 とにかく、日本の歴史家はなってはいない、私の若いころは日本の縄文時代は3000年続いたと教えられていたのであるが、それがこの50年間の中に縄文期は1万6千年に延びて、エジプト文明と肩を並べている状態である。 本当の歴史はまだまだ遥かに長いのであるが……!!!!。

 なんせ、余り真実を突き止めれば、日本の歴史は一瞬で変わつてしまうので、本当のことは認めたくは無いのである。歴史が変わったら、変わったで自分達の無能ぶりが明らかになるので……!!!?。ようするに、今までの歴史には無かったことは、例え事実でもあっても、認めたくないと言うのが彼等の気持ちなのであろう。


 
 要するに、「数」を記号として扱う、一つの 記号操作手法により、初めて「カムナガラの道」の数表の上に「神の存在」が姿を表し、色々と囁き始めることになるのである。それは、まさしく、人類初見の、目を見張るばかりの驚くべき一大ペ―ジエントであり、素晴らしい自然の業がおもむろにそこに姿を表すことになるのである。
 今の私でさえ、それを見る度に驚きと興奮で心は何時も波打っているような状態になるのである。
 恐らく、それをシッカリ突き止めるのには、数年はかかるはずである。何故ならば、その表は余りにも荘厳極まりの無いものものなので、余程、慎重に点検、検証しなければ、個人によっては、それは解明不能となって雲消霧散 (
うんしょうむさん)状態になってしまうこともあるからである。要するに、現代知にいくら卓越しても、現代学をいくら用いても、そんなものはまったく意味は為さないと言う事である。
 
 それは、どうしても知りたい、どうしても解き明かして見たいと言うつ強い意志を持った者でなければ、陽の目を見ることは叶わず、あくまでも、意志を貫徹させたいと思う者だけが通り抜けることが可能な細い道であると言って置きたい。
 しかも、それは国籍や言葉が異なる外国の方でも、その知りたいと言う意思を強く持っているのならば、言葉などはまったく不要であり、十分に理解が出来るものである。また、何度でも言うが、小学高学年の学力があれば十分可能なのである。
 なまじっか、高学歴の持ち主の方が、自説に拘泥し過ぎて、変な方に傾き始め、甚だ扱いにくいことになることが多い。
 要するに、彼等は素直ではない、純真な心を持ってはいない、すなわち、易しいことを殊更難しくして、あなた方には解けないであろうと言って、我々を見下して満足しているだけ、それが現代の有識者の姿なのである。
 
 拙宅は余り遠くではない、伊豆のど真ん中である。現在の交通機関を利用すれば、誰でも来れるはずである。
 心の底から知りたいと思うならば、是非、この1年か、2年の間に来宅して疑問を晴らし、更に、己の知を磨いて将来に備えて頑張ってもらいたい。本気になれば割合に簡単なことである。要は心の問題であり、気持ちの問題である。
 現在は86歳なのでそれ以降はどうなるかは判らない。 後は、単なる、好々爺となって世間を憚って、ひっそりと生きて行こうと思っている。その折はまた、尋ねて来るが良かろう、何時でも歓待することを約束しよう…!!!!!。
 
 出来れば、若い頭脳を持った数学に興味をもっ高校生あたりが2~3人くらいで来て、無理なく学んで貰いたいのであるが…!!。 とにかく、易しくて、難しいものであり、学べば、学ぶほど楽しく。かつ夢中になることは私が請け合う……!!!。
 


 さて、さて、冒頭で紹介した、もう一つの大変なものとは、すなわち、「カムナガラの道」の中の「神の秘儀」を少々お借りして、我々日本人が大変困っているある病、日本人の60~70%が甚だ困り抜いている、ある病の症状を、いとも簡単に消してしまうような「あるモノ」を「神」に内緒で作り上げたことである。まことに、「神の秘儀」は偉大であり、やんごと無いものと大いに感謝している次第である。これを困っている方々に利用して貰う、そこに「神」の存在意義があるのであり、同時にそれが日本神道の本来の務めなのであると思っているのであるが…!!??。

 そのような偉大な「自然の理」の素晴らしい存在を打ち忘れ、、由緒ある古神道を下げずんで満足しているのが,今の日本民族の知識階級であり、懸命に外見のいい西洋知を有難がって褒め讃えて満足している現在なのである。 
 何かおかしい、何か変である……!!??。

 さて、少々詳細を説明しておこう、馬鹿馬鹿しい、あるはずが無いとのたまう方は、是非、スル―して戴きたい。。

 
 それは別に何もしない、ただ、「ある物体」を傍らに置いておくだけであり、それでありながら、効果絶大と言うものである。
 単に、簡単な軽い物体を就寝時に傍らに置いておくだけであり、恐らく、医師法違反にはならないであろうし、薬事法違反にも問われないであろうと思うのであるが……!!??。そこは、慎重にしていきたいと思っている。

 とにかく、簡単なものではあるが、現代の科学では理解できない摩訶不思議な物体なのであり、古代の遺物と言ってもいいものである。とにかく、古神道の神髄である「カムナガラの道」にある法則を用いて作りあげた「神の秘儀」の一つとでも言って置こう。
 
 私としては現在、人々を苦しめている嫌な病から救うことになると安易に考えているのであるが、それが法に触れるのなら即刻、止めてもいいと思っている。果たして、今の世間はどう見るのであろうか…???。
 まあ、法に触れるのなら、家族だけで使い、安楽の齢、永遠の眠りに就くまでの一時を十分に楽しむだけである。ハ―、ハ―、ハ― !!。

 まあ、当分の間、親戚や友人の間で実験検証し、笑い合って楽しむことにしょう、とにかく、おそろしいものであり、思いもよらないものであるとだけは言って置こう。しかし、よく考えれば、古代から日本人の間では、同一的なもので規模の小さいものは遥か古代から使われていたような気がするのであるが…!!?。
 ただ、今では西洋科学知がはびこる中で、半ば、馬鹿にされ、あまり、用いられることは無いようになって来てはいる。
 それは日本民族の大なるミス、悔やまれる大きなミスであると私は思っている。
 
 まあ、これに関することは、折に触れて、時々、その経過をここに載せながら皆さんに大笑いして戴こうとは思ってはいる。
 それほど、馬鹿馬鹿しくて、滑稽なものなのであるが、「人間の知」、「人間の健康」とは一体、何であろうかと言う大きな疑問を突きつけているものである。また、その効果を見るにつけ、ひしししと、「あの世」の存在を考えさせられるものでもある。
 要するに、現代科学のように「あの世」の存在を完全に無視している限り、病は無くならないということである。
 何故ならば、すべての病の根は「あの世」にあり、あの世の操作を少々行えば、完全に無くなること判るからである。
 とても信じられないであろうが……!!!??。
 
 まあ、今後、その掲載記事を見つけ出したならば、是非、見て考え込み、そして、恐る恐るあたりを見回して貰いたい……!!!?。 また、どうしてもその内容をハッキリさせたいのならば、当方にその小冊があるので読んで頂きたい…!!。

 以上が約半年、ご無沙汰した理由であり、その報告でもある。お陰様で、私は86歳になった今でも甚だ、矍鑠(
かくしゃく)であり、若いものには、まだ負けないつもりで頑張っている。しかし、老いは年ごとに近づきつつあるのは確かでもあり、体力の低下は日頃、目立ってきているのは否めない。  さあ、あと何年生きていくことやら、…!!!??。

 以上、半年間のご無沙汰の報告は終わりにして、ここからは本題に入ることにしょう。

 
 「数」は神の言葉であり、「神」は数を用いて我々と会話をし、我々に色々なことを告げようとしているのであるが、如何にせん、人間サイドはそれには気が付かず、飛んでもない方向を見て、懸命に「神」を探しているだけなのである。
 それでは、いくら年月をかけても、いくら努力して呼びかけても、「神」は見つからないはずであり、「神」の言葉に遭遇することなどは無いはずである。
 
 しかも、日本の国自体には、遥か古代から、その徴(
しるし)になるものは残されていたのであるが、如何にせん、見る目を持たず、聞く耳を持たない者達、すなわち、 外つ国(とつくに)に魂を持つ輩が国を治めていたので、陽の目を見ることは叶わず、すべては行方不明となっていたのである。

 それが、すなわち、古神道の神髄である「カムナガラの道」であり、古神道の奥儀祝詞の「ひふみ…天地の数歌」の本体となるものである。また、それから見出されたものが、「数」で語られている「神の秘儀」を解き明かした「神の数学」と言う天下御免の大叡智、天下無双の「神の秘儀」なのである。
 

 「神の数学」は何処まで広げても、常に「陰」と「陽」の関係を持ちながら正しい秩序を持って完全連動しているものであり、それにより、「宇宙大自然の理」を無理なく解き明かしているものである。そこには何処までも尽きることの無い、不思議極まりない「陰」と「陽」の組み合わせが軽いステップを踏んで規則正しく、秩序を踏んで踊っていることを是非、知って欲しい。

 それは誰にでも検証可能であり、決め手を覚えれば何時でも、何処でも姿を表して踊ってくれるのである。
 
 そこがランダム極まりの無い「現代数学」と完全に異なり、一つの別世界的な数学形式、夢幻的な数学形式を見せているものなのである。すべては、「陰」と「陽」の組み合わせであり、それらがめくりめくばかりに序を持って整列しているのである。
 とにかく、そこには現代数学のような「ランダム」とか「意味の無い数の並び」等は一切無く、すべては大いなる意味を秘めながら常に
「陰」と「陽」の関係を持って存在しているのである。しかし、「現代数学」はその事実をまったく知らずに好き勝手な論証を作り上げて人々を煙に巻いているのである、が、しかし、その事実は誰も知らないと言うお粗末さである…!!!。
 
 しかし、その「神の数学」の実体については未だ知る者は誰もいない。要するに、その「陰」と「陽」の関係は常に正確な形で連動しながら真実の存在そのものを指示しながら、囁いているのであるが、その囁きの存在さえも現代人は知らないのであり、聞こうともしないのである。

 確かに、現代社会において、「神」とか、「神の囁き」等と言っても、笑われるだけであり、信用は地に落ちるだけであろう。
 今のように、あなた方、いや現代社会全体が「神の存在」とか、「神の知」に対して、完全無視、あるいは 侮蔑的な態度を見せている限り、いくら「神の存在」、「神の存在証明」、「神を持ち求めて」等のおこがましい願望を大きく連ねても、成就は絶対的に叶わないのである。何故なら、私に言わせると、あなた方の学んでいる数学は少々おかしく、そこには大きな矛盾が有って切口は大きく違っているからなのである。
 しかし、盲目なあなた方にはそれが見えない、いや、余りにも基本的な根っこの部分に誤りがあるので、気が付かないと言うべきかも知れない。もっと、大きく目を見開いて捜索の網を広げてもらいたい。
 
 考えて見ると、その切口は大きな矛盾を見せながら横たわり始めてから、最早、数千年と言う年月が流れているのである。
 その間、誰もその実際の切口と観念上の切口との違いには気が付かず、観念上の切口を合わせるために営々と努力を重ね、て来たのであり、その結果として、飛んでもない、永遠に合うことの無い怪しげな論理を導き出して満足しているのである。

 本来はもっと素直な数の論理を構築して、大自然に対処すべきであったのであるが……!!!!!。

 
 さてさて、このような漠然としている寝言を広げてもあなた方にはまったく解らないであろう。
 では、現代文明の持っている数学の成り立ちから説明しょう、色々な数的な学説を見てみると、どうも、我々人間には指が10本あるので、それを利用する形で10進法と言う形態が始まったようである。本来ならば、自然の持つ理か数の現われを学ぶべきなのであるが、それをしなかったのである。 要するに、あまりにも蓋然的なことを基本にして始めたものであり、何ら、自然的な具象から学ぶことはまったく無かったと言う事なのである。

 何と、我々の数学は自然とまったく無縁なものであり、単なる、人間の構造的な理由から便宜上始めたものであり、それが現代数学の基幹となって進められてきたものなのである。それは、人間の生活上、甚だ便利であり、また、それを我々は勝手気ままに作り変えて、生活上便利なように気の向くままに作り変えることが出来たものである。
 それが数学の新機軸であり、一つの発展なのであると言って歴史上にとどめて満足して来たのである。しかし、その結果、自然には合わない、自然とはマッチしないと今になって大騒ぎしているのである。
 それがいわゆる、「現代数学」の本質であり、
今のそぐわない現実なのである。

 しかし、一方の先進的な数学者達は「現代数学」の持つ様々な定理や規則を持って自然の本質と相対しているのであるが、進めば進むほどに矛盾まみれになって困窮している状態である。要するに、「現代数学」の顔を立てれば、自然はソッポ向いて言うことを聞いてはくれないのであり、自然の顔を重んじれば「現代数学」はとんでもない答えを返してくれると言うことなのである。要するに、現在のところ、人間知と自然知は相思相愛の仲でな無く、相思相反の仲と言うものなのである。
 また、そうしてしまったのも人間の奢りであり、人間の欲望なのである、もって反省すべきであろう。


 さあ、久しぶりに言いたいことを長いことを言ってしまった、これで完全に溜飲が降りた状態である。あなた方には気の毒ではあるが…!!!。

 そこで、次回からは、「数」の調べ、「数」の語りに戻ることにしよう。 さてさて、何を語り上げてあなた方の心を満足させるかである。
 まあ、次回が始まるまでの一時、折角のコロナ禍なので、静かに毎日を過ごそうではないか…!!!。一つの骨休みと思えばいいのである。

                                            それでは次回にまたお会いしましょう…!!!。